「言葉狩り」とは、特定の言葉の使用を禁じたり規制をすることですが、「イメージが悪い」「印象が悪い」というだけで言葉狩りをしてしまうのも問題だと思っています。
今回は、介護業界や認知症の周辺症状(BPSD)でも使われている「徘徊」という言葉を、今後は使わず見直しを推進しようとする「言葉狩り」の動きが出てきていることについて記事を書きたいと思います。
「徘徊」使いません?
以下の記事によると、一部の自治体や厚生労働省の新たな文書や行政説明などで、「徘徊」という言葉を使わないように見直しに動いているようです。
「徘徊」使いません 当事者の声踏まえ、見直しの動き
認知症の人が一人で外出したり、道に迷ったりすることを「徘徊(はいかい)」と呼んできた。
だが認知症の本人からその呼び方をやめてほしいという声があがり、自治体などで「徘徊」を使わない動きが広がっている。
「目的もなく、うろうろと歩きまわること」(大辞林)、「どこともなく歩きまわること」(広辞苑)。辞書に載る「徘徊」の一般的な説明だ。 東京都町田市で活動する「認知症とともに歩む人・本人会議」メンバーで認知症の初期と診断されている生川(いくかわ)幹雄さん(68)は「徘徊と呼ばれるのは受け入れられない」と話す。
散歩中に自分がどこにいるのか分からなくなった経験があるが、「私は散歩という目的があって出かけた。道がわからず怖かったが、家に帰らなければと意識していた。徘徊ではないと思う」。
認知症の本人が政策提言などに取り組む「日本認知症本人ワーキンググループ」は、2016年に公表した「本人からの提案」で、「私たちは、自分なりの理由や目的があって外に出かける」「外出を過剰に危険視して監視や制止をしないで」などと訴えた。
代表理事の藤田和子さん(56)=鳥取市=は「『徘徊』という言葉で行動を表現する限り、認知症の人は困った人たちという深層心理から抜け出せず、本人の視点や尊厳を大切にする社会にたどり着けない。安心して外出が楽しめることを『当たり前』と考え、必要なことを本人と一緒に考えてほしい」と話す。
こうした意見を受け、一部自治体が見直しに動く。福岡県大牟田市は、認知症の人の事故や行方不明を防ぐ訓練の名称から「徘徊」を外し、15年から「認知症SOSネットワーク模擬訓練」として実施する。スローガンも「安心して徘徊できるまち」から「安心して外出できるまち」に変え、状況に応じ「道に迷っている」などと言い換えている。認知症の本人の声を尊重したという。
兵庫県は、16年に作成した見守り・SOSネットワーク構築の「手引き」で、「徘徊」を使わないと明記、県内市町にも研修などで呼びかける。名古屋市の瑞穂区東部・西部いきいき支援センターは、14年に作成した啓発冊子のタイトルを「認知症『ひとり歩き』さぽーとBOOK」とした。
「いいあるき」という新語を使うのは東京都国立市。「迷ってもいい、安心できる心地よい歩き」という意味を込め、16年から始めた模擬訓練で用いている。 厚生労働省は、使用制限などの明確な取り決めはないものの、「『徘徊』と言われている認知症の人の行動については、無目的に歩いているわけではないと理解している。当事者の意見をふまえ、新たな文書や行政説明などでは使わないようにしている」(認知症施策推進室)とする。
【引用元】朝日新聞DIGITAL
言葉狩りでしかない
言わんとしている事はある程度理解は出来るものの、「闇雲な言葉狩り」は良くないと感じています。
もちろん「闇雲ではない理由」が沢山書かれていました。
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というような内容でしたが、言われた本人や家族の気持ちや人権ばかりを気にして「状態を的確に表す言葉」を無くすことは言葉の損失です。
そもそも我々だって、生きていれば受け入れられないことや、我慢をしなければならないことは山ほどあります。
介護現場で職員として働いていれば、人権さえも侵害されてしまうことは日常茶飯事です。
「だけど認知症者にはもっともっと、腫れ物に触るように配慮して考えよう」ということであれば「逆差別」になってしまいます。
今後はどう言い表すのか
では、「徘徊」を使わずに、今後はどういう言葉で言い表すのでしょうか。
ニュース記事中に
散歩中に自分がどこにいるのか分からなくなった経験があるが、「私は散歩という目的があって出かけた。道がわからず怖かったが、家に帰らなければと意識していた。徘徊ではないと思う」。
ということが書いてあります。
私もそれは「徘徊ではない」と思います。
何故なら、目的があって出掛けたものの道に迷うことは、認知症の人だけでなく我々でもあることなのです。
それが老人だったからと言って安易に「徘徊」と言うのは確かにおかしいことです。
そういう状態を表す言葉は
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になるかと思います。
しかし、我々が適切な意味で使っている「徘徊」は
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などで、自分の置かれている状況が理解できず歩き回る人のことを指します。
また、認知症でなくても、例えば若者が失恋をして、途方に暮れてアテもなく街を彷徨い歩く姿も「徘徊」と呼ばれます。
つまり、症状と行動を的確で端的に表した秀逸な言葉が「徘徊」と言えます。
しかし、それでも言葉狩りが正当化されてしまうのは違和感しか感じません。
「架空だったり時空を超えていても、本人がそう思っているのならそれは立派な目的だ、徘徊ではない」と言うのでしょうか。
では、その状態を今後何と呼ぶのかと言えば
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に改めるというのです。
しかし、それでは普通の人の外出や散歩やお出掛けとの区別がつかず、状態を的確に表していないことになります。
リスク管理の面でも緊急性が薄れ、高齢者本人の生命の安全を阻害する要因にもなりかねません。
また、認知症者の「外出」が、無関係の人を巻き込んだ事故や事件に発展してしまう可能性もあります。
ひとつのメリットを得るために新たなデメリットを創り出すのはナンセンスです。
わざわざ言葉狩りをせずとも「徘徊は徘徊」で良いと思うのです。
今後起こり得ること
過剰に危険視して監視する必要があるかないかは「認知症の症状や状態による」のではないかと思います。
一律に「徘徊」を禁じて、少しも危険視しなくなってしまうと、街中が危険な状態になります。
最近よく目にするのが「高齢ドライバーの事故や事件」がありますが、同じような事故や事件が今後も増えていくことが予想されます。
「本人や家族が良ければそれで良い」で終わってもらっては困るのです。
言葉狩りやイメージだけを変えようとしても本質が変わらないことには結局は何も解決しません。
むしろ「意図していなかったことや想定外の事が発生する可能性」に目を向けることの方が重要だと思います。
最後に
今回は、「徘徊」という言葉を使わないようにして別の言葉で言い表していこうとする「言葉狩り」について記事を書きました。
いくら言葉を狩っても、その本質は変わりませんし、新たな問題やデメリットが発生してしまっては意味がありません。
また、高齢者や認知症者本人に配慮をするだけでなく、「もっと社会全体に配慮して欲しい」と思います。
「認知症の周辺症状には「お散歩」があります」と言われる日が来てしまうのでしょうか。