岐阜県高山市内の介護施設で、利用者の顔を殴るなどして怪我を負わせたとして傷害の罪に問われた34歳の男性介護士の初公判が、2019年1月17日に高山簡易裁判所でありました。
ニュース報道の内容や「顔を殴る」などのワードを見る限り、どう考えても加害者の男性介護士が悪く、罪を償う必要があると感じてしまう人が多いのではないでしょうか。
しかし、この男性介護士は「昨年の10月に同簡裁から罰金30万円の略式命令を受けたにもかかわらず、これを不服として正式裁判を請求した」という点が不可解、且つ今回の記事の肝の部分でもあります。
略式命令に従っておけば、「刑の執行を猶予し、没収を科し、その他付随の処分をすることができる(刑事訴訟法第461条)」のですが、それさえも不服だったということは、やはり何らかの問題があると考えてしまいます。
単純に考えれば、「怪我を負わせれば虐待や傷害事件」ということになるのですが、この事件には介護業界ならではの「リアル現場での介護職員の苦悩と職責」と、「マスコミが流す情報の危うさ」が同居している内容でした。
そしてそれは「介護職員の立場の危うさ」でもあります。
今回は、「事件の考察とともに報道のされ方や介護職員の立場の危うさ」について記事を書きたいと思います。
※この記事は2019年1月19日に執筆したものを、2019年5月14日に手を加えて書き直したものです。情報が古いものも含まれますことをご了承下さい。
ニュース概要
利用者に暴行「正当業務」介護士、無罪主張 高山簡裁初公判
岐阜県高山市内の介護施設で利用者の顔を殴るなどしてけがを負わせたとして、傷害の罪に問われた男性介護士(34)=同市=の初公判が17日、高山簡裁(三﨑雅司裁判官)であり、男性被告は「利用者と従業員の安全のために行ったことで、けがをさせるつもりはなかった」と起訴内容を否認した。
弁護側は正当防衛と介護における正当業務行為に当たるとして無罪を主張した。
冒頭陳述で検察側は「被害者にPHSで後頭部をたたかれたことや、他の従業員の助けを得られなかったことに激高して暴行を加えた」と指摘した。
起訴状によると、男性被告は昨年4月17日午後2時15分ごろ、勤務先の介護施設で70代の男性利用者の顔面を拳で数回殴り、床にあおむけに倒すなどの暴行を加え、頭部打撲などのけがを負わせたとされる。
男性被告は昨年10月に同簡裁から罰金30万円の略式命令を受けたが、不服として正式裁判を請求していた。
【引用元】岐阜新聞社
このニュース報道だけ読むと「明らかに男性介護士に非があり、何故利用者に怪我を負わせたことが正当業務と言えるのか」がまったくわかりません。
わからないなりに「どちらにしても介護士が悪い」という印象が残ってしまうのは事実です。
「正当防衛」と「正当業務」
ニュース記事には「正当防衛」と「正当業務」に当たるとして無罪を主張した、と書かれています。
まずは正当防衛と正当業務について解説しておきたいと思います。
「正当防衛」とは
「急迫不正の侵害に対して自己または他人の権利を防衛するため、やむを得ずした行為」は正当防衛として認められています(刑法36条1項)。
今回は、先に利用者から介護士がPHSで頭を叩かれており、その危険を排除し自らの権利を防衛するためにやむを得ずに行った行為であれば「正当防衛」が認められるはずです。
つまり、介護士の反撃が「やむを得ず行った最小限度の範囲内」であるかが争点のひとつとなっています。
「正当業務」とは
「正当業務」とは、業務として正当と認められる行為のことで、「正当業務行為」とも言います。
例えば、
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などは一見、他人を傷つける行為ですが、罪には問われません。
理由は「元々からそういう仕事だから」です。
しかし、今回の事件のように、「介護士が危険行為をしてきた利用者をつき飛ばしたり、顔を殴ったりする行為」が正当業務行為に当たるかどうかを普通に考えると、正当業務には該当しないように感じてしまいます。
あくまで、正当業務ではなく正当防衛の範囲での争点だとは思いますが、「介護職員の正当業務を主張する」のは斬新な斬り口であるとも言えます。
介護職員の立場と報道の危うさ
先ほどのニュース報道の内容だけで、真面目に考察してきましたが、後からこの事件の「経緯を知って驚愕」しました。
そして「介護職員の立場の危うさ」と「ニュース報道の方法と受け止められ方の危うさ」を感じました。
事件の経緯
この事件の経緯は以下の報道になります。
傷害疑い介護士を書類送検 パン切り包丁持った認知症男性殴る
岐阜県警高山署は9日、同県高山市の短期入所生活介護事業所「シンシア高山」で、男性利用者(72)の顔を殴るなどしたとして、傷害の疑いで同市の男性介護士(33)を書類送検した。
送検容疑は4月17日午後2時15分ごろ、施設内で男性が持っていたパン切り包丁を取り上げようとしてもみ合いになり、転倒した際に男性から携帯電話で後頭部を殴られたことに腹を立て、顔を3回殴り、体を投げ飛ばし軽傷を負わせた疑い。
同署によると、男性は認知症だった。包丁は流し台に置いてあり、男性が周辺にいたという。
発生後、介護保険法に基づき立ち入り検査した県は、今後施設への処分を検討するとしている。
【引用元】京都新聞
上記報道は、2018年8月10日に流れたものですが、これを読むとこの事件の印象はガラっと変わってしまいます。
介護職員の立場の危うさ
介護施設内で認知症の利用者がパン切り包丁を持っていた場合、何が起こるかわかりません。
何も起きないこともありますし、他の利用者や職員にその刃先が向いてしまう可能性も十分にあり得ます。
そうなると、現場の介護職員としては「職責としてパン切り包丁を離してもらう」という対応は間違っていなかったと思います。
一番良いのは、「全員を避難させて警察に通報」だったのかもしれませんが、同じような状況は全国の介護施設で大なり小なり発生している事態です。
それを今まで「見過ごしていたり、見て見ぬフリをしてきたのは誰なのか」ということを考える必要がありますが、現場での緊急事態の際にそんな悠長なことは言っていられないので、この時この男性介護士は「パン切り包丁を取り上げる」という判断をしたのでしょう。
その際に、揉み合って認知症者に後頭部を携帯電話(PHS)で何度も叩かれていたのですから、どちらにしても先に手を出したのは認知症者です。
そして、「介護職員だから叩かれ続けても我慢をする」という考え方も明らかにおかしいと言えます。
そして、その結果、「パン切り包丁を持っていた認知症者に怪我を負わせてしまった」ということですから、確かに「正当防衛」や「正当業務」を主張するのは理解できます。
もし仮に、パン切り包丁を持った利用者が他の利用者へ危害を加えてしまった場合は、介護職員は「危険を排除しなかった」「安全を確保しなかった」「利用者を守らなかった」「適切な対応を行わなかった」と言って職責を非難されていたでしょう。
たらればの話にはなりますが、現実問題、介護職員の立場にそういった脆弱性があることはリアル現場の実情や過去の報道を見れば明らかです。
報道方法の危うさ
最初にご紹介した、高山簡裁での判決の報道では、「認知症の利用者がパン切り包丁を持っていたために発生した」という事実がスッポリ抜け落ちてしまっています。
利用者が持っていたのは「PHS」とだけしか書かれていません。
約5か月前の報道と繋ぎ合わさなければ、状況も経緯も全く見えてきません。
そして報道を繋ぎ合わせるための努力を「読み手側」がしなければならないために、そういう努力をしない人や興味が無い人にとっては
「また介護職員が利用者を殴ったんだな」
「介護職員は事件ばかり起こすなぁ」
「介護職員にマトモな人はいないんじゃないか」
という印象しか残りません。
もちろん、今回の報道方法は「認知症の利用者に配慮」したものなのかもしれませんが、事実は事実として伝えなければ「一方を陥れる情報操作」になってしまいます。
報道方法について、同じように違和感を感じた事件もあったので先日記事に書いたばかりです。
報道のやり方にも危うさを感じた事件でした。
最後に
今回は、「パン切り包丁を持っていた認知症利用者を介護職員が取り押さえた際に揉み合いとなり、怪我を負わせてしまった事件」について、「介護職員の立場の危うさ」と「報道方法の危うさ」の観点から記事を書きました。
しかしこの時、周りの職員は一体何をしていたのでしょうか。
他利用者の避難誘導を行っていたのなら間違った対応はしていないでしょうし、上司や警察に報告や通報をしていたのかもしれません。
しかし、その結果がこういった事件として報道されることになってしまいました。
2019年5月現在、この事件の進展又は結末がどうなったのかは、未だ報道で流れてきませんしネットを検索してみても出てきませんでした。
この事件で勉強になったことは、「介護現場で自分を守るためには「男気」や「正義感」を出してはならない」ということです。
しかし、直接的に何もしていなくても罪に問われてしまう可能性のある職業です。
戦々恐々とした類まれなる職業が介護職員なのです。