看取り介護は、人間(利用者)が命の終焉を迎える際の支援やケアになるため、どうしても「特別感」を感じがちです。
ですから、「特殊な介護をしなければならない」「素敵な最期が迎えられるように支援しなければならない」と思い、看取り介護をドラマチックなものにしたがる人がいます。
しかし、実際の看取り介護とは「日常の介護の延長線上にあるもの」であることに鑑みれば、看取り期だからと言ってドラマチックにしようとしたり、何か特別な介護をすることは不自然です。
看取り期にある利用者が心穏やかな終焉を迎えられるように支援していくことが大切なのですから、「看取り期だから」と言って始まる介護や対応は良かれと思ってやっていることでも、急に日常とは違うベクトルとなってしまうため、「支援側のエゴ」と言っても過言ではありません。
もちろん、最終的に何が本人にとって良いのか(良かったのか)、もっとできることは無いのか(無かったのか)、などと思いを巡らせたり振り返ったりすることはありますが、それは日常の延長線上の中で穏やかに終焉を迎えられたかの話であって、「どれだけドラマチックに素敵な最期を迎えられたか、ではない」のです。
今回は、看取り介護をドラマチックにしたがる支援側のエゴイズムについて記事を書きたいと思います。
看取り介護をドラマチックにする支援側のエゴイズム
人間は生まれてから最期を迎える日までは全て繋がっていることは誰でも理解ができるでしょう。
ですから、看取り期ではない時も看取り期になった時も、それが人間の自然な姿であり自然の摂理なわけです。
そう考えれば、「生きざまが死にざまに帰結している」のであって、「命の終焉が間近だから特別感が必要」という考え方は不自然です。
つまり、死にざまにフォーカスするのではなく、生きざまにフォーカスする必要があることがわかれば、「死にざまをドラマチックにしようとすることは支援側のエゴイズムである」ということになります。
以下で詳しく見ていきたいと思います。
①看取り期だから特別な部屋を準備する
看取り期になった利用者を今までの居室から特別な部屋(看取り部屋)に移動させて、穏やかな最期を迎えてもらおうという配慮をしている事業所もあるようです。
確かに、一見良い取り組みのように見えますが、明らかに特別なことをして日常から切り離してしまっています。
多床棟の場合は、看取り期に個室への移動が一般的なようですが、同時期に複数の利用者が看取り期になった場合の個室の確保の問題もあります。
同じ看取り期なのに、全員の個室の確保ができず個室に移動する人とそうでない人が発生するとするならば、やはり支援側のエゴになってしまうでしょう。
また、ユニット型なのに看取り期になるとわざわざまた別の個室(特別室など)へ移動するというのは理解に苦しみます。
それで本人が喜んでいるのか喜んでいないのかはわかりません。
だからこそ支援側のエゴイズムなのです。
何故ならば、本人がどう思っているかがわからないのに、日常から切り離して本人の生きざまを強制的に変えてドラマチックな最期に仕立て上げようとしているからです。
本人の意思やニーズがわからないのであれば、むやみやたらに日常から切り離すことは避けた方が良いでしょう。
それに、客観的に見て、
- 特別な部屋へ移動させられたら死期が近いことが本人や他の利用者や第三者にわかる
- 「死に待ち部屋」のような不吉な印象を受ける
というデメリットもあります。
②看取り期だから音楽を流したり花を飾る
看取り期だから、本人が好きだった音楽を流したり花を飾る対応をしている事業所もあるようです。
この場合も、命の終焉間近の時に本当に音楽が聴きたいのか、花を飾って欲しいのかわからないため、日常から切り離した支援側のエゴイズムであると言えます。
もっと言えば、「何故、それをもっと元気な時にやってあげないのか」という違和感が残ります。
生きざまが死にざまに帰結するのですから、「もっと生きざまに目を向けてあげる方が大切なのではないか」と思うわけです。
「さて、そろそろ最期を迎えそうだから本人が昔好きだった音楽を流して花を飾ってあげよう」などという考え方や行動はエゴですし「いけず」です。
看取りを特別視してドラマチックにしようとすると、生きざまをないがしろにすることになりかねません。
③看取り後に自画自賛する
看取り期に日常から切り離した様々なドラマチックな特別な介護や対応をして、お亡くなりになったあとに「素敵な最期でした」などと言えてしまう支援者には違和感を感じてしまいます。
何故なら、人様の命をスケープゴートにして自分の特別な看取り介護を自画自賛しているからです。
そもそも、本人がどう思って最期を迎えたのかは本人にしかわかりません。
支援者のエゴイズムでドラマチックに仕立てあげた上に、それを自画自賛する姿は明らかに不自然です。
最後に
今回は、看取り介護をドラマチックにしたがる支援側のエゴイズムについて記事を書きました。
もちろん、人それぞれ色々な考え方があり捉え方がありますが、「それは本当に本人が望んでいるのか」「支援側のエゴイズムではないか」というポイントはおさえておく必要があります。
看取り介護は「死にざまという1つの点(ドラマのカット割り)」を意識するのではなく「生きざまという張り巡らされた線(人生)」を意識することが大切なのではないでしょうか。
コメント
看取り介護はこれまでにかなりの回数関わってきましたが、終末期の対応はそれぞれでした。
身寄りのない利用者様などは、カウントダウンが始まった段階で後見人さんらしき方が日参して様子を確認してました。因みに全て施設に丸投げする後見人さんもいましたが、そんな場合は看取り対応に関して100%施設管理者の思想と言いますか、理想らしきものが反映されていましたね。本文にありますように、『死に際』をコーディネートする事が、どうやら施設としては一般的な様でした。
家族様がおられる場合はカウントダウンが始まった段階で、かわるがわる身内の方が泊まり込まれたりされてましたね。
まぁやっぱり何だかんだで関わってきた利用者様の看取り介護に向き合うと、そこは施設の意向や理念理想などとは無関係な部分で色々な思いが出て来てしまいはします。
自分の夜勤中に逝かれた事例もございましたし、夜勤明けの帰宅途中に「亡くなられました」なんて一報が入ると、他人のこととはいえやっぱりちょっと・・・これは人間として現実に起こり得る感情だと思います。
看取り介護に向き合う事は利用者様の日々に向き合い続けた者が、その『逝きざま』にもしっかりと向き合う事。施設の意向や理念理想から発生する『対応』とは別次元の事であり、『学び』であって欲しいと感じる次第です。
>失業中のswさん
こんにちは~
コメントありがとうございます^^
そうですね、看取り介護の対応には慣れても、一人ひとりの生きざま(逝きざま)に向き合うことは毎回が学びなので「対応」とは別次元の事なのでしょうね。
貴重なご意見ありがとうございました。
末期癌だと、看取り期はかなり苦しむので、病院なら「あと数日で死ぬ」となったら多床室から個室に移しますね。大学病院には緊急処療室?とかいう部屋代が安い個室があって移していました。
最期はとにかくグエ~ッとか呼吸ができなくて苦しんでてうるさいので、多床室だと他の患者さんに迷惑なので。でも個室に移しても、苦しむ声など廊下に響いてました。
あと、死ぬ間際は、看護師さん達が処置を複数人でしてバタバタするし、家族も来るし、さらに死んだらそれが他の患者さんから見えたら・・なので、個室にうつさざるをえないでしょうね。
ただ、多床室から個室に移すと、患者さん本人にとってもいいみたいです。カーテン閉め切った多床室にいたときは「早く殺してくれ」と言っていましたが、窓から外の景色が見えるちょっと広めの病室にうつったとたん、精神的には落ち着いたのか、「死にたい」とは言わなくなりましたね。
ただ介護施設でなおかつユニット型なら、個室からわざわざ他の部屋に移すのは意味がわからないですね。
なんだろう、人が死んだ部屋は縁起が悪いから、死ぬ部屋は一つに決めておこうとかいうオカルト的な話なんでしょうか・・・。
>デイちゃんさん
こんばんは~
コメントありがとうございます^^
確かに部屋移動は周りの利用者に配慮して、という事情もあるのでしょうね(個室から個室は理解に苦しみますが)。