介護の都市伝説とも言える「特養の七不思議」について記事を書きたいと思います。
今回は七不思議6つ目の「先がないのに薬たくさん」についてです。
他の七不思議については、下記記事をご参照下さい。
【特養の七不思議】
①食べられないのに食べなさい
②終わりが来ているのに病院へ
③望まないのに胃瘻
④胃瘻をつけて注入量は変えない
⑤先がないのに検診
⑥先がないのに薬たくさん
⑦親には延命、自分は平穏死(石飛幸三医師)
— 介護職員A@介護福祉士ブロガー (@kaigosyokuinA) May 12, 2019
先がないのに薬たくさん
多くの高齢者は沢山の内服薬を処方されています。
介護施設(特養)でも、全く薬を飲んでいない(処方されていない)利用者を探す方が難しいのではないでしょうか。
それくらい「歳を取れば取るほど」薬を処方されている確率が高く、その種類も多くなっていく傾向があると言えます。
しかし、薬は多ければ多いほど良いというものではありませんし、副作用や薬と薬の相互作用によって「逆に体に良くない」という場合があります。
それでも特養に入所している利用者は(それ以外の高齢者もそうですが)、「先がないのに薬をたくさん服用している」のです。
特養の配置医
特養にも人員配置基準で「医師」の配置が義務付けられています。
特養の人員配置基準における医師は「常勤でなくてもいい」とされています。
つまり、特養の配置医は「非常勤可」となっているため、多くの特養では「非常勤の医師」が配置医となっているのではないでしょうか。
基本的に、その配置医が主治医となり利用者の診察(回診)をしたり状態を判断して薬を処方しています。
しかし、非常勤医師の場合「利用者の普段の様子を知らない」ということが往々にしてあり得ます。
診察(回診)の際は、特養の看護師から最近の様子や状態及び家族の思いなどの説明を聞いた上で行われていますが、こんなエピソードを聞いたことがあります。
意思疎通が可能な利用者が医師の回診後に憤慨していました。
介護職員が理由を尋ねると利用者は 「あの医者はヤブだ!近づきもせず顔だけ見て帰って行った!人の体に触れもせずに一体何がわかるんだ!」 と言うのです。 それを聞いた介護職員が看護師に伝えると 「それは仕方がない、そういうものだ」 という返答だったそうです。 そして、また前回と同じ内容で同じ種類の内服薬が処方されたのです。 |
もしこの話が事実であれば、様々な問題が隠されているのではないでしょうか。
延命至上主義からの脱却
延命至上主義は、「生命を延ばす方法がある以上、治療を諦めてはならない」とする考え方です。
薬の主目的は治療ですから「一種の延命」です。
しかし本来、延命至上主義は「先がある可能性が見込まれる人を対象」としたものです。
「先がなく老衰が進んでいく高齢者」に延命を施すことは「自然と逆行している」と言えます。
延命至上主義から脱却し、自然には逆らわない最期を迎えることが「人間らしさ」ではないでしょうか。
そう考えると「先がないのに薬たくさん」という状態は摩訶不思議であると言えます。
医療費の無駄遣い
過剰な薬の処方は医療費の無駄遣いになります。
高齢者は「薬を特別視」している部分もあるように感じています。
例えば、「薬の多さを他の利用者に自慢する」「ごはんは食べないけど薬だけは飲む」「病院受診をして薬を処方されると安心する」ということはよくあります。
しかし、それが医療費の無駄遣いにならないように主治医が「加減していく」必要があります。
高齢者は様々な持病があるのだから「薬たくさん」という単純なものではなく、「利用者の日常の様子」「本人や家族の思い」を診ながら自然な最期に導いていく役割が求められているのではないでしょうか。
そう考えると「先がないのに薬たくさん」という状態は摩訶不思議であると言えます。
皆で責任転嫁
明らかに老衰で終末期であり看取りケアが行われている場合は「先がない」ということがわかりやすいのですが、例えば看取り期ではない時に「喉に食べ物が詰まった」「嘔吐をして誤嚥した」などで最期を迎えてしまった場合、現状では「介護事故」「介護事件」として取り扱われます。
そして、「その責任」が追及され問題となります。
「おやつのドーナツを喉に詰めた利用者が亡くなった問題で、特養職員の准看護師に有罪判決が出た」という事件もありましたが、まだまだ「死と向き合うことはタブー」とされている結果ではないでしょうか。
その「タブー」を避けるように、介護施設も職員も家族も病院も「責任を転嫁している」のが現状です。
終末期でなくとも高齢者であれば「急変」「突然死」はあり得ます。
そうなった場合に、特養であれば配置医の「死亡診断書」が必要になりますが、「医師法」に以下のように規定されています。
(医師法)
第二十条 医師は、自ら診察しないで治療をし、若しくは診断書若しくは処方せん を交付し、自ら出産に立ち会わないで出生証明書若しくは死産証書を交付し、又は自ら検案をしないで検案書を交付してはならない。但し、診療中の患者が受診後二十四時間以内に死亡した場合に交付する死亡診断書については、この限りでない。
要約すると「医師は検案(外表を検査し総合的に判断すること)をしないと死亡診断書を交付してはいけない」「診察後24時間以内に亡くなった場合は検案をせずに死亡診断書を交付してもいい」ということになります。
利用者の日常的な状態を知らない非常勤医師の場合、「直ちに診察(又は検案)できないから救急搬送」「終末期ではない急変は医療に繋ぐべき」という判断がされたり、施設側も職員も「万が一の損害賠償請求を回避」「違法性を阻却」「免責」するために、看取り期ではない利用者は医療へ繋ぐことでしょう。
しかし、医師が「死亡の際に立ち会っていない場合、24時間を経過後であっても改めて診察し普段診ている状況(傷病)などから急変したことに関連性がある場合は死亡診断書を書くことができる」のです(参考資料:厚生労働省医政局医事課長「医師法第20条ただし書きの適切な運用について(通知)」より)。
そのためには、医師が「利用者の普段の状況や傷病についてよく知っており、急変との関連性を判断可能かどうか」ということが重要です。
そして、「急変が傷病に関連する死亡」であったのなら「自然な最期であった」と言えるのではないでしょうか。
全ての人が「自然な最期と向き合うこと」をしなければ、皆が責任転嫁をすることになり「とりあえず延命」「先がないのに薬たくさん」という不自然な状態が続くことになります。
最後に
今回は、特養の七不思議(6)「先がないのに薬たくさん」について記事を書きました。
大部分の薬は肝臓で分解され腎臓で排出されますが、それらの内臓機能が衰えてきている高齢者には薬が効きすぎてしまったり、副作用が出やすくなったりします。
薬の副作用でふらつき転倒したり、尿失禁が増えてしまったりすることもあります。
それはそれで問題ですし、高齢者が薬をたくさん処方されて服用しているのは、「自然な最期」という観点から見ても不自然であると言えます。
医師を含め、介護に携わる全ての職種が「自然な最期に導ける役割」を担っていき、全ての人が「自然な最期に向き合える環境」が必要です。
もちろん、本人(又は家族)の延命という選択を否定するわけではなく「両方の選択肢をフラットな状態」にして考えていくことが大切なのではないでしょうか。